看護学生、OT実習生のためのOTエビデンス入門
これは、県内のある精神科病院の新人看護師との会話を元に再構成したものです
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作業療法ってレクとか作業をさせることでしょ?
・・・いいえ違います。
レクリエーションや作業、そこでの関わり方は、治療をおこなう媒体として用いているに過ぎないのです。
ですから、誕生会や散歩、ゲームや会話、各種のレクや作業などをただ施せば効果が上がるかというと、そうとはいえないのです。
「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」と諺にありますが、数を打てばよいという考え方はあまりにも乱暴ですよ。笑
作業療法のエビデンス
看護にもエビデンスとクリニカルパス(以下パス)があるように作業療法にもエビデンスとパスがあります。
ここでは、看護のパスを例に作業療法のエビデンスを考えてみましょうか。
一般的に、看護のパス作成はエビデンスを求めるために調査項目を設定することからはじまりますよね。
つまり、
一般情報としての、年齢、性別、入院形態、入院歴、病気への理解度や身体合併症とか主たる精神症状の推移などの把握にはじまり、観察項目、部屋環境、清拭、入浴、陰部洗浄、髭剃り、洗面、シーツ交換、環境整備、導尿、バルーン交換、浣腸、摘便、体交、食事介助、吸引、検査介助、OTへの参加、看護での教育…etc. これらの実施時期や頻度・程度を縦断的に把握してゆく※1でしょう。
これらのデータは、疾患毎に違うのは当然のこと、同じ疾患であっても病院毎に微妙に差異がありその施設毎に特徴があるとも考えられます。
しかし、こうしたデータの集積によってエビデンス構築の基礎とする手法はどこでも共通するものでしょう。
また、こうして得られたエビデンスは、細かく把握しようとすると病棟単位でも微妙な差異が存在してもおかしくありませんが、質の高いサービスを施設全体で提供出することを目指そうとすると、病棟単位ではなく病院全体で共有出来るエビデンスの構築が必要となります。
病棟では、これまでの経験と現状の把握から、これらを分析しパスを作成しているはずです。これによって、なぜそのケアが必要なのかという根拠が明確になり、今、目の前の患者さんに何をする必要があるのかという認識が明らかなものとなっていくのです。
こうして得られた、エビデンスとパスを元に看護活動が展開されています。当然そこには、技術とスキルも不可欠です。
さて、では作業療法のエビデンスはどのようにして得るのでしょうか?
(作業療法で、治療の根拠としている理論やモデルは医学、心理学、社会学、民俗学など多岐にわたり、ここで説明するには限界がありますから、興味が有れば書籍などをあたってみて下さい:「作業療法の源流」、「作業科学」 など)
精神科臨床の作業療法士達は、一般的に過去の論文や文献をもとに、作業種目そのものが持つ治療に利用出来る因子をグループ単位や種目、期間や対象者のちがいによって限定的に用いたり、作業分析と呼ばれる手法で、治療因子の物理・環境・人・道具といった構造を分析出来るように訓練されています。ですから、生活関連行動や作業活動やレクでも作業分析をすることが出来ます(作業療法士の専門性ですね)。
作業分析で取り上げた因子は、看護が調査や観察で得られたエビデンスの項目を看護活動に利用していくのと同様に、OTでの治療活動に組み込まれていくことになります。
ところが、ここで取り上げられた因子は、作業分析や専門家としての知識に裏付けられた観察に基づいて選ばれたと言っても、担当する作業療法士という個人のフィルターを通してチョイスされるため、偏りや欠落という限界があることも事実です。私たちが、ことさらチームによる検証や協業を大切にしていこうとしたり、得られた情報の客観性や確認作業を大切にする背景の一つにもなっています。
では、エビデンスの項目は?
たとえば、加世田病院のOTでは、作業の時間、社会化、ロール、心身の能力と機能、フィジカルな因子、課題の複雑さや難易度、連帯や共同といった集団因子、楽しみや充実感など自己効力感に関するもの、認知機能のためのアシストなどを共通した大きな項目としています。
この項目は、作業療法診療記録の中に人間作業モデルに沿って少しばかり簡潔な言葉を使って項目としてあげています。
いつ調査するの?
毎回の、集団や個別のセッション(作業療法士や心理士の関わり)ごとに、診療記録を付けています。
診療記録の中では、実施日時、プログラム名、治療因子(エビデンス)、作業種目や課題の一般名称、そこでの患者さん個人の参加と適応や活動の特徴が記載されます。毎日の記録が、エビデンスの更なる構築と検証には欠かせないと言うことがいえます。
疾患の違いをどのように考えているの?
たとえば、統合失調症などでは、彼らに親和的な習慣性行動パターンが尊重される形で、何らかの社会的な役割を担い、治療者との関係を含め信頼出来る人間関係を築くことが、妄想性、ないし幻覚性の自閉的回路を断ちつつ慢性化病態を回避し、共同社会に開かれ、そこに根付く一つの方向を考えることが必要※2だといわれています。そのための治療因子としてエビデンスを選択しパスを考えているわけです。
同様に、気分障害では、信頼を寄せられる個人的なレベルでの共同性の確立を目指し、患者さんに認知のゆがみや偏りを是正出来る能力を使える状態にあればコーピングスキルを伸ばし育んでいくようにするわけです。
また認知症では、病態(認知機能)に応じて、認知しやすい刺激を活動の中に組み込んでいきます。それは、ゲームによる記憶や概念の操作であったり、馴染みのある歌や話題を操作的に提供することであったり、身体活動を通して脳幹活動を賦活しながらの心身へのアプローチであったりします。
こうした援助を治療として提供するために、作業分析(治療構造や障害構造の分析)に基づいたエビデンスの確立が必要となりますし、個人の生きてきた文化や時代背景、神経心理学や生理学をはじめとする基礎医学や、認知行動や学習の応用理論、実験心理学や精神分析といった多くの学際的エビデンスも視野に入れて、パスを設定する必要があります。同じように、心理士も心理臨床の知見をエビデンスとして利用しパスを設定するわけです。
「科学的に考えることは一番重要ですよね?」
個人的には、患者さんのことを科学的一本槍で考えることには反対なんです。そんなこと考えている奴はアホじゃないかとね。笑
人は、科学的な生き物ではないですから。・・・リハ関係者に科学信奉者が居るとしたら・・・ちょっと退いてしまいますね。
研究者はそれでよいのですよ。仕事ですから。
でも、患者さんは科学的に生きているわけではなくて、迷信や霊的力を信じていたり、科学的な知識にしたって千差万別でしょ。
ですから、そのような存在としての患者さんを先ずは十分尊重したいわけです。
とうぜん、こちらの考え方や価値観とは異なるんですが、それが人としての良いところじゃないですか。
あなたが、自分の価値観や考え方を無視したやりかたで、強制的に変更を求められたり、活動への参加を強要されたら嫌でしょう?
科学は、私たちがより良いサービスを行っていくためや、患者さんに提供されるべき標準的な情報ニーズとして必要なんです。
ですから、目の前の患者さんに対して十分参考にはしますが、科学的根拠を絶対視はしないですね。
だからといって、いつだってうすらぼんやりとしか患者さんのことを考えているのではないですよ。笑
個人の特性や持っている能力に対しては、きちんと根拠に基づいた査定をしなければなりません。検査や測定なんかは、信頼性とか妥当性はもちろんのこと、標準値があるのでこれらを知っていることは大切なことです。査定は、治療仮説(エビデンス)との照合のために必要ですから、主観だけで「今日は〜な感じです」とか「レクの時は表情が良かったから良い治療や援助が出来た」って訳にいかないんですよ。
たとえば…、hemi(片麻痺)のひととかの運動パターンの査定にブルンストロームを使わなかったらどうなります?
だいたい動かせるように改善してきましたとか、私が思うにいい感じで腕を使うことが出来ませんとか…、こんな表現じゃ変でしょ。笑
でも、ブルンストロームを使わなくても、別な表現は可能ですよ。ADL遂行には問題ないとか、質や量としてどの程度使えてるとか、関節可動域や筋力とかコーディネーションは〜だとかね。その上で、結果的にADLに支障なく上肢を使えるようになったとか、本人の満足のいくやり方で趣味の園芸も出来るようになりましたとかって言うことになるんです。
この時初めて、ニーズ(結果予測)と介入の結果得られたデータとの間に合理的な関連性があるかどうかを考えていけるわけで、これが査定(アセスメント)そのものということになります。
このやり方に、統計的知見や標準化されたデータがそろっているとなると科学的と言えるようになるし、観察データなども数量化したり、一定の類似した状況下で再現が可能であることを再認することがエビデンスの構築のためには大切な手続きとなるんです。
ところで、個別的に考えるといえば、医療従事者の中でも科学信奉の程度が病的というか、仕事をやっているという気分に浸ってないと不安になる人がいるんじゃないかって思うようなこともありますよ。
たとえば…、
「高齢者向けの歌や踊りのある楽しげな活動」があったとして、高齢者なら全員に参加を促しますか?
ちょっと考えてみても分かるでしょう?
あなただったら、身体要因や抑うつの程度、その時の気分や優先すべき治療や処置・検査などを考えながら働きかけをするかどうか考えるでしょ。
そう、さっき言ったエビデンス。あの項目を無意識のうちに想起しながら確認作業をしているわけですよ。
こんな例もありますね…、
受動的に学習能力を発揮する機会を奪われてきた(受動性無学習とか学習性無力感といいます)統合失調症の患者さんとかだと、お菓子を出したり、褒めちぎったりすると喜びますよ。でもね、これはエビデンスに基づいた援助仮説なしに、「患者さんが喜ぶから」ってことだけでやっていたら、受動性無学習の患者さんを作り出していくことにしかならないことが知られています。いわゆる、ホスピタリズムや無用な長期入院患者を作り出していくと言うことですよ。
善意や温情主義だけによる援助で行動や表現の機会を奪うことがないようにしないといけないですね。私が加世田病院に就職した頃の県下の精神病院では、活動や作業にでるたびにお菓子やたばこを与えたりしていましたし、それを自分が患者を動かしているみたいな感じで自慢げに話す看護員もいたりしたんです。
「加世田病院ではやめました」って言ったら、「これまでの歴史や流れを軽んじる不届きな奴だと」叱咤されたこともありましたね。笑
こうした援助方法は、はじめ行動療法として生活療法の中でトークンのように計画的に用いられていたのでしょうが、いつの間にか形骸化してしまい、「食べ物があるから参加する」とか、「参加しないと怒られて嫌な思いをするから参加する」といったようなものを看護者も気づかないうちに助長していたわけです。今でもそんな病院があるかも知れませんよ。笑
しかし、就職して間もない頃に「お菓子もでないんでしょ。作業療法には参加しません」って言われた時には考えさせられましたよ。
それまで患者さんが作業療法と呼ばれてやってきたこと(作業や活動)と、やることは同じなのに「お菓子やタバコ」がでないわけですから、一大事ですよね。私でも同じことを言います。いや、掴みかかるかなぁ。笑
お菓子やタバコを出した方が、当座の間患者さんは喜ぶわけですし、お菓子をくれる人はいい人だと思われるわけですからね。
まぁ、今ではこんなことが無いことを祈りますけど、10年位前の話だから、職員はそう入れ替わってないし、今でも間違ったやり方を正しいことだと思っている人がいたとしてもまったく不思議じゃないですよ。時代は変わってゆくけど、人は変わらないところもありますからね。
「でも、毎日同じ内容のレクをしていたら、何時までも同じことしてって言われますよ」
そうでしょうね。うちの病院でも看護の方に、「何時までも塗り絵ばっかりさせて」ってよく言われますよ。笑
OTや臨床心理の人だとそんなこと言わないですけね。看護は、療養生活の支援をする立場にありますから、患者さんの日々の変化や状態に敏感に仕事をしています。ですから、良い方向への変化は微々たることでも全て良いことのように受け取りがちですよ。
良い変化を目指しているわけですから、看護の視点としては当然ですし大切な視点でもあるんです。
それに、沈滞化しがちな慢性疾患の療養生活の中では、季節感のある行事を取り入れたり、ゲームや散歩に誘い出すことはとても重要なことなんです。
リハスタッフは、それに加えて良い変化も悪い反応もひっくるめた全体としてのバランスの善し悪しを見ているんです。悪い反応があったとしても、それを乗り越えられる潜在能力があると査定すれば、患者さんの抵抗を上手く引き出しながら課題を乗り越えられるように援助したり、課題に直面した時のスキル獲得を目指すべく個別の援助を設定することもあるんです。反対に、一時的に良い反応があったとしても、それが更なる学習や適応のために今後も推奨してゆくべき反応かとか、結果的に患者さんの病状やニーズにプラスとなり、援助の一助としてさらに発展させるべき反応かなどを判定できなければ成りませんね。自閉や抑うつ反応を患者さんなりの適応行動の結果だとする見方がありますが、あれも同じ考え方に基づくものです。ですから、逆方向への変化だけを目指して躍起にアプローチするというのはちょっと考えなければなりません。
失敗や成功の体験が本人をどれほど動機づけるかとか、安定した参加状態が病状や情緒の安定にどの程度効果的かといったような巨視的な見方も必要な時があるんです。
病棟でレクとかやっていても、同じような変化や状態を感じるんじゃないですか?
患者さんが、その人らしく過ごせる時間を患者さんと一緒に共有出来ているって感覚ですよ。治療にしろケアにしろ、患者さんに選んでもらえるものとしてありたいんです。自分(職員)たちだけで、これは治療ですとかケアですから良いんですよって言っていても仕方ないですからね。笑
ところで、塗り絵ばっかりやっているけれども、そこでの人との関わりとか、作業種目や状況との関わりとか、塗り絵の作業を構成している要素との関わりなんかは、日々刻々と変化しているんです。それが、新人や学生にも感じられるようになると良いのでしょうけどね。
陶芸作業とか、手芸とか、茶話会とか全部同じですよ。活動性や状態に変化がある方が良いことだとか、社会生活に近い作業の方が良いと思うのは、ある意味医療従事者のエゴです。安定していることが必要な時期もありますし、症状特有の病態変化に必要なフェーズ(相)っていうのもありますから、それを無視して変化することを求めてもうまくいくわけ無いですよね。
事故防止のために患者さんの監視だけをしていたり、離院の防止のために参加していたら見えてこない部分ですよね。管理業務も大切なんですけどね。諸先輩達は、そうした業務をしていながらもきちんと患者さんのことを見ていると思いますよ。
でも、同じ種目を続けることが明らかに、マンネリズムつまり不活発で非創造的な状況を生むんだったら、即刻やめないといけないですね。同じことを繰り返すことはマンネリとは言わないんですが、それすらよく分かってない人たちは、同じことを延々繰り返すのだからマンネリだと言ってしまいます。そうだとしたら、世間の仕事なんてマンネリそのものってことになってしまいますけどね。その判断は何か変化を起こさないとと考えている人たちには難しいのかも知れません。
患者さんは、医療従事者のすることには従順に従おうとして、結果的に応用の利かない無学習状態になることもよくあることです。
高齢者のレクで、楽し気だからとボールはじきをいつもやっていた。ある時、隣の人とボールの受け渡しをしようという時に、隣の人の持っていたボールをいきなりはじいてしまったとか、隣の人の持っているボールを怒りながらよこどりしたとかね。創造性や社会性の伴わないことをその場限りに褒めたりして助長した結果はこんなふうになるんです。
エビデンスやパスの構築について考えていると、査定(アセスメント)がとても大切になりますから、塗り絵や同じ種目のレクばっかりやっていても、なにが治療や援助になっているかを肌身に感じ、集団への帰属感を充足したり、社会性というか他者への配慮を育むことで、結果的に病棟での情緒の安定を引き出したりすることも出来るようになるんです。これは、直接レクなんかに参加して一緒にそういう時間を過ごしながらアセスメントも出来るようにならないと理解出来ないでしょうかね…。
ですから、話を戻しますが種目を変化に富んだものにするだけでは治療もケアも意味をなさないんです。
査定もせずに水彩画や油絵を導入しても、実りがないんですよね。私が就職したての頃、いろいろさせて欲しいという要請があって、水彩画や油絵とか、木炭でのデッサンをやったこともあるんです。でも、自分で下絵が描けなくて、下絵を描いてもらうことに依存することを助長したり、上手くできたと思って病棟に帰ったら生活のことで指導を受けて嫌な気持ちになって「こんなんだったら絵を描いてもなんにもならない」とか、散々だったんです。
今では、そんなことはないんですよ。看護の方達も一緒に参加して、付き添ったり、楽しんだりしていく中で、病棟での生活に結びつけながら援助していっているんです。「今日も頑張ってやったよねぇ」っていう共同性の感覚や、信頼関係を病棟の中でも利用しながら伸ばしているってことです。
だからといって、何時までも塗り絵や同じ種目のレクばっかりやりなさいってことじゃないですよね。それは、感心出来ない。笑
大切なことは、そこでのエビデンスやパスに沿った査定をしながら、援助していくことなんです。いいかえると、仮説の検証をしながらおこなうってこと。セラピストのやったことが上手に出来たかどうかじゃなくって、治療の必要性や患者さんのニーズという結果期待に対して、なにがどのように効果があったり、どういう理由で無かったりしたのかってことが仮説の検証と言うことになります。
そこから患者さんとの関わり方を考えていくっていうことになりますね。
数年前にOTのイニシアティブで外来講師を招いて音楽療法を数年間行っていたことがあったんですが、これもエビデンスを構築したり確認するという手続きを担当者が行わず、中断されたという経験があります。外来講師の方には何の責任もないんです。あれは、全くOTの責任だったですね。反省しきりですが、担当者にはよい経験になったと思いますよ。他の、補完療法についても同じことが言えるでしょうから導入と運営にあたっては留意しておくべきでしょうね。
まぁ、そういうことで、エビデンスやパスについて考えたり、査定が上手くできるようなり、関係する職員間での情報共有が出来ると、前述した誤解や誤用も少なくなるでしょうね。
ちなみに、OT室には水彩画やアクリルペイントなんかもできるようにしてあるんですよ。笑
「エビデンスとクリティカルパスを作ることが大切なんですね。」
仕事の質を管理するという意味では大切なことですよね。でもね、パスやエビデンスを作る作業をやっているかどうかはあまり問題じゃないんです。
大切なことは、日常的に治療や援助としての手続きを考えているかどうかってことなんです。
つまり、どういう援助や関わりをしたら患者さんが良くなっていくのかを想定出来るかってことが大切ってことです。
そのための一つの手段として、エビデンスとパスがあると思うんです。先にも、少し話したようにエビデンス構築には文献にあたったり、実際の患者さんを調査・観察することとかいくつかの方法がありますが、そんなことしなくてもすばらしい治療や援助をしている治療者はたくさん居るんです。そういう人たちは、自分の仕事の中から自然とエビデンスとクリティカルパスを感覚的に導き出しているんでしょうね。
私は、よく職場の同僚達にそういったセンスを曇らせないようにって言っているんですよ。どうかすると、すぐに仕事を真面目にすることに一生懸命になってしまってね。笑
そういうセンスって自分の内側にあるものでしょ。自分のこと好きでないとやっていけないんです。
でも、最近の人たちって外側を大切にしたり、自分の内側のことでさえも外に取り出して考えようとするんですよね。知識とか、職務とか、理想とか、人にどう見られるかとか…。自分の内側に湧き起こってくる感情までも客観的に捉えようとね。それも、大切なことなんでしょうけど、患者さんとの関わりの中で自分の中に生まれてきた感覚的になものや得られたものを、そのもののままに味わったり、自分の感性をそこに漂わせるってことを大切にしないとどうでしょう?
私は、そっちの方が大切だと考えているんですよね。
まぁ、話は紆余曲折したけど、
私たちは、適応のための主体的な行動が獲得出来るように機会や場所を提供し、それを育み伸ばしてゆけるように援助しているわけです。
今回は、エビデンスの話だったんで、エビデンスを構築するために何が必要か、どんな手続きや知識、学際的基盤となる背景が必要かと言うことを、少なくとも一度はきちんと考えておかないといけないですね。実際の業務では、それのくり返しですよ。つまり、実践と検証ってこと。
これは、手段は違っても、看護やOT・心理、ほかの職種も同じですね。
「自分の今の仕事のやり方を考えさせられますね」
自分の仕事のやり方や、これからの身の振り方について考えるってことは良いことですよね。でも、そんなとき自分の資格や仕事上の立場について悩むような考え方はしない方が良いですよ。そんな人は、立場や資格を持っても変わらないですね。
自分の内側のありようを変えられないんですから、外側に求めても変えるのは難しですよ。まぁ、きっかけには成るでしょうから、それを求めて行動することに反対はしませんけどね。
「仕事って何でしょ?」
自分を楽しむことでしょ。それで、患者さんにも同じくらいかそれ以上に還元すること。それで、良いんじゃないですか?
先に自分のことを大切にしたり楽しめないと、患者さんを大切にしたり、楽にさせて上げることなんて出来ないですよ。
最近は、これが逆になっているところもありますよね。結果的に自分のために仕事してるみたいな。
「患者さんが一番大切って言われますからね」
そうなんだけど、それは結果論としての話ですよ。患者さんが一番大切と話す立場の人は、自分のことが先だってことは、別の次元のこととして当然のこと、分かっているんです。その延長線に「患者さんが一番」という実務の次元での考え方があるんです。
もし、分かってないままにそんなこと言う上司がいるとしたら仕事中毒か神経症的な悩みを抱えて居るんでしょうね。笑
まぁそういうことで、自分の心身の健康状態とかよくないと良い仕事なんて出来ないですよね。笑
病院っていう働く器があって、そこに働く人が心身共に健康で、システムも上手く機能していないと、良いサービスを提供することは難しいですからね。そこそこに、そういうところを目指したいって気持ちを持っておけばそれで十分じゃないですか。そのうち必ず行動に現れますよ。
以上、文責 堀木2005.5.27
参照文献
1) 川野雅資 統合失調症のクリニカルパスの作成 精神科診断学 13(4):403-417,2002.
2) 加藤敏 良好な社会適応をする統合失調症患者の社会的役割と絆 精神科治療学 18(10);1181-1188,2003.